南國のばら作り、あれこれ 9月

今年もベトに泣く

 この地南関はベト病菌がどこかしこにあると見えて毎年毎年ベト襲来に戦々競々悩まされる。 昨年が7月6日、一昨年が8月17日と不規則の発生である。もうそろそろベトが来ると思って予防の意味で7月6日にリドミ ルMZを散布しているのだが、7月12日になって、コンフィダンス、シージャックにベト発生を見た。

 我が家は湿っぽい冷気の流れてくるちょうど谷間の一角とも言えるところにあって、温度の急降下による霧発生はしょっ中である。もうそろそろベトが来るという独特の嗅覚があって、予防の意味から1週間前に散布したのだったが、それがまったく役に立っていないことになってショックである。

 ベトの怖さについては十数年前、「ばらだより」 No.347号で小島元理事長が紹介しておられるが覚えておられるだろうか。シュートが立ち、若葉の色鮮やかに輝きを帯びてつぼみも膨らみ、いまから糸目が来ると言う時期に、一晩でベト病菌は猛威をふるい、若葉を丸裸にしてしまうのだから泣くに泣けない。恐ろしい病気である。

 ベト病にやられたのは7年前にさかのぼる。当時大牟田に住んでいたが、この地南関に舞い戻ってきたさいに、ばらを冬のうちに移植し春の花を待ったのだが、この時は余程木が弱っていたのか4月上旬のこれからちょうど花になりだすという時期にほとんど全滅という忘れられない経験がある。しかもこれは露地での出来事である。大牟田ではこういう経験がなかったので、これからばらを本格的にやろうという矢先のこの惨事はかなりの ショックであった。

 これより少し前だったが、故太田嘉一郎前九州支部長が研究部会のなかでベト病を取り上げて「ばらだより」誌上で情報交換しあったように覚えているが、そのころはまだベトがこんなに恐ろしい疫病だとはよくわかっていなかった。自分で経験してはじめてその怖さを思い知ったわけである。

 ベト病菌の異常増殖温度は摂氏19度、湿度が90%前後といわれている。この状態がたかだか2時間も続けば、耐性さえなければたちどころに蔓延するという。実際、ベトにかかりやすいのは、その地域性、気候特性によるようだ。30度くらいの夜温が午前4時頃からの放射冷却によって5時から8時あたりまで霧が支配し、温度が19度近辺を持続するときに間違いなく再現できるという。勿論、ベト病菌があってのことである。

 宇土の福島氏は眼が抜群によく、葉の裏をかざして葉端を見て「ほら、これがベト病菌」という。胞子状の黄色いものが葉に付着して立っている。こんなものでどうして葉をバタバタ落してしまうのかわからないが、ひどいのになると木の部分までへばりついてステムの皮をも黒変、亀裂させてしまう。こんな威力のある菌体なので樹勢は一気に弱ってしまいまともに咲くはずだった蕾が急に小さくなっていく。回復までに1週間以上はかかるようだ。

 ベトは一般にハウス栽培のところで頻発するようだが露地でも勿論起きる。数年前の南関移転のときは露地でのできごとであった。ベトに弱い品種は我が家ではコンフィダンスであり、シージャックである。それからメルヘンケーニギンを襲う。去年はみわくにも発生している。

 「幸い転じて福となす」わけではないが、門司の領袖上森氏は数年前の7月初旬にベトに見舞われ、コンフィダンス、シージャックは新葉がほぼ全滅したと聞くが、何とか秋のコンテストに間に合わせたい一心で高さ60〜70cmに切り戻し、逆境から7月剪定、2回ソフトピンチから開花という新しい手法を編み出している。

 もともとコンフィダンス、シージャックは樹勢は強く、枝立ちは旺盛であるから、少々のストレスに遭っても切り戻しから剪定しても十分間に合うわけであるが、ベトにやられていなければムリな切り戻しはしないだろう。そしてこの経験過程を経て、宇土の福島氏はさらにこの手法を空中支柱という離れ業につなげてのけたのである。

 7月初旬に強剪定して秋に通用する花はコンフィダンス、シージャック、メルヘンケーニギンであり、他はまだ結果がでていないようである。今年あたりある特定の品種以外は全部この方法でもいいという結論を出してくれる人がいるかもしれない。

 このように、7月初旬の困ったベト発生がなければ、7月強剪定法は日の目を見なかったかもしれないが、これはベトの発生していないステムでも通用することは勿論である。

 1昨年はベトが2回襲来している。 9月下旬から10月初旬にやってくるベトはレディラック、武州、みわく、メルヘンケーニギンなどにも無差別に砲火を浴びせてくる。そのときは落葉させるより、うどんこ病のように葉を変形させ、萎縮させるものだから、リドミル、ペンコゼブ、クリンヒッター、アリエッティ、ダイセンステンレス、ダコニール1000などの名だたる消毒薬も効果なく、消毒で汚れてしまった葉を使って個展をせざるを得なかった非常に恥ずかしい思い出がある。

 当地南関ではベト病を発病期にさしかかると定期防除の対象に入れざるを得ないようだが、1週間前にリドミルMZを散布したのにベトが発生した。 これをどう説明すればいいのだろう。

(1999.7.14 記)

ばらと焼き物と

 ばらを始めて16年になる。もうそんなになるかなあと思う一方で、まだそのくらいしかならないのかなあとも思う。

 熱しやすく冷めやすい、三日坊主の性格が少しずつ変わっていったのは、 1つは体力の低下もあるだろう。若い頃、スポーツは何でもやった。それが金のかからないですむ時代性でもあった。年を取ってゴルフを始めた。残念ながら思ったように上達せずもうやめようと思っている。

 また生来勝負事の好きな性分であるから、麻雀、パチンコ、囲碁、将棋、何でも首を突っ込んだ。もう少しハイカラな趣味でいうと、洋楽の鑑賞である。昔は打楽器を受け持ちながら、吹奏楽で指揮をしていたことも遠い昔、今から30年以前のことになる。そして陶器の収集である。陶器といっても花器だけである。ちょうど、ばらにお熱を上げた頃に前後して花器の収集癖が始まったので、自分の中にどこか両者共通するところがあるに違いない。

 本稿にはばらが見え隠れするが、主役は花器である。ただし、この花器はわたしの春夏2回行っているばら個展の大切な裏方であり、これなくしては個展の発想が浮かばなかった点では重要な因子となっている。

 貧乏所帯であるがために、そう高価な花器が集められるわけではないが、酒がだめなので、飲み屋に行く代りに陶器行脚に出かけあっちで1箇、 こっちで2箇と手に入れ、段々増えていった。

 益子、瀬戸、信楽、丹波立杭、備前、萩、上野、小石原、小鹿田、唐津、小岱、三川内、現川など行けるところはみんな行った。 そしてがっかりするところも多かった。

 行くときには何がしかの金を持っていかねば面白くない。しかし、大金を持てる身分ではない。そこで自分流の掘り出し物とはその価格が見立てより1/2以下であることが購入条件だと決めていた。

 最初は衝動買いやだまされ買いもあったが、次第に自分なりの目利きの力がついてきたように思う。最近は細君と大抵一緒ということもあって、両方が気に入らねば買えない仕組みになっている。いま花器は100本くらいになろうか。

 よく聞かれる。「なぜばらなのですか。なぜばらだけなのですか。」そこで花器との関わりを説明すると、必ず 「なぜ花器ですか。どちらを先に始めたのですか。」となる。

 どうも記録によると1983年春の久留米つつじ祭りでばらを見て、その美しさに魅せられたのが最初であるらしい。その年の秋にはかなりの花が咲いたが、それを挿す花器が欲しくなって、翌年春、有田の陶器市に出かけている。有田焼は磁器であるが、1ヶ所だけ陶器の屋台店がありそこで買った花器が私の好奇心を異常にくすぐる事になった。

 「ばらに合う花器を探す」がいつか「花器に合うばらを探す」になり、両者がだんだんエスカレートしていって、「ばらは最も美しいものを咲かせ、花器はそこそこのものを集める。それでいいじゃないか。」というように変っていった。

 最初のうちは単にばらで良かったが、段々とただのばらではすまなくなった。ばら道のぬかるみに足を踏み入れ、 高級志向でもがけばもがくほど、反対に焼き物の方はしだいに道が遠のいて行った。

 陶器に飽きはないが、ある程度自分なりの絶対的な美的感覚が備わってくると、自分で焼くような求道心があれば別だが陶器収集 (特に花器) と限定すると類型化してしまい、あとは焼きが問題となるだけでそれも巷の価値基準が絶対度より知名度に左右される事がわかってきて、なかなか掘り出し物に出くわす機会が少なくなってくるのである。

 数年前、友人夫婦と連れ立って車で備前焼に行った。岡山駅前に素美庵という陶商があり、まずそこで備前を紹介しようとしたのだが、何としたことか、そこで細君がある花器の前に立ちつくし、どうしてもこれが欲しいと動かなくなった。

 それは耳付き灰かぶりの花器で、表はかなりの熱履歴のためにビードロ状に近く焼き上がっており、帯紫色のどっしりとした仕上がりとなっていた。普通焼き物は裏表があって大体1ヶ所から見るのがこの花器はみどころは2ヶ所あった。

 素美庵の床の間に飾ってあった壷をこの花器に取り替えてみても断然他を圧し威厳を保っている。いい花器である。

 しかし、 わたしの見立てでは値段が折合いそうになかった。とても1/2以下の掘り出し物というわけにはいかなかった。むしろ、やや小振りだが美しい赤紫蘇味の出ている壷に魅力があって、こちらはどうかと代替案を出したが、素美庵の主人は私と細君の性格立場をうまく言い当て表現するものだから、逆に細君はますますその花器に惚れこんでいったのである。

 わたし達にとってはかなりの高価なものだし、できればやめたかったが、わたしにも内緒にしていた永年勤続の報奨金まで取り出してネバルものだから、とうとう細君の顔を立ててやった次第である。

 細君にしてみれば作家が誰かなど関係なかった。自分の最も気に入った、いつ見ても心の休まる焼き物として床の間に飾ってあることで十分であった。

 1997年秋のばら個展の会場で囲碁の先輩でしばらく会っていなかった大牟田市在住の7段の某氏(仮にY氏と呼ぶ)が奥さんと一緒にきてくれた。どちらかというと気難しく取りつき難い印象強く、碁会所でもあまり打ってもらっていなかったが、 (わたしは5段)生活する環境が違う感じでもう10年ほどは会ったこともないくらいの疎遠になっていた人である。

 一通り会場を見た後でハウスの花も見せて欲しいということになり、自宅に案内したが、そこで床の間に飾ってある、例の備前をちょっと見ていいですかという。それを手にしたY氏の表情が変わり同行の奥さんと顔を見合わせて、Y氏 「これは・・・?」 奥さん「ヤマスですか。もしかして?」Y氏 「うん、間違いなかろう。」こういう言葉がかわされた。私はこの作家がヤマスだとは勿論、記憶しているわけではなかった。花瓶の底にはチャンとヤマスと書いてあった。ヤマスは森陶山の雅号である事が後でわかった。

 驚いたのは今度はわたしたちである。聞くところではY氏はここ十数年来何とこのヤマスばかりを300から400点収集しており、花器だけでも200箇以上は持っているという。

 わたしの家にある虎の子の家宝。その作家とY氏の収集している備前の作家が同一人物だったとは何たる奇遇。めぐり合せとしか言いようのない出来事である。備前を焼く作家が500人とも800人ともいう中で、素美庵から買ってきた作家と同じ作家のものをその先輩は十数年まえからそれだけを数百点もずっと集めてきた

 かくしてY氏夫妻との急接近が始まることとなったが、爾来Y氏は細君の焼き物に対するセンスの良さについて激賞する一方で、私の焼き物感覚が凡庸で細君にはとても勝てないと評価する事になったのである。

〈H.11.7.18 記〉


10月号     ホームページに戻る     8月号